2021/10/29
自分のメンタルの弱さ2
御覧頂きありがとうございます
服とは関係ない仕事を始めます。
情熱が薄れ、とにかく手っ取り早く
稼ごうとする自分。
求人を見るとなかなかの自給の
お仕事が沢山ありました。
目が💲マーク 笑
工場が目に止まります。
夜勤の仕事を始めます。
当時、DELL コンピューターを製造
していた工場に。
そのライン作業です。
夜勤だけでも800台近く製造していました。
自分の担当は一番最後の箱に入る
手間の所です。
シリアルナンバーの確認、アクセサリーの
付け忘れはないか、などなど。
全ての最終確認作業です。
自分が見逃してしまうとそのまま
納品してしまう。
責任が……
慣れないなりにも、毎日
緊張しながら出勤してました。
お金の為に…
で、お給料はというとこれは稼げました。
その時思ったのが
“働きに出た方がとりあえず
お金には困らない“
与えられた仕事をこなせばいい楽だなと。
生活して行くには安心感がありました。
フリーランスを目指していたのに…
が、しかし
午前中のバイトと夜勤の両立。
3ヶ月程経ち体がクタクタでした。
あ〜もう辞めたい‼︎
弱い自分、今こうして書いていても
恥ずかしいです。
何故、頑張れなかったのか?
明確な目標がなかったのもあります。
服、ファッションの仕事から離れて
得た事は何があったか?
友達、服の仕事では得られない体験。
今となっては良い体験だったと思っています。
特に友人との出会いは宝です。
職を変えなければ出会なかったから。
書きながら過去の自分を責めて
落ち込んでみたりもしましたが
“今があるのは過去のあの体験を
乗り越えてきたのだから“
と 思っています。
さあ 次どんな行動をしたか?
に続きます。
皆様がこの記事でこんな弱いメンタルの
人がいるんだ、自分の方がましだと
安心してホッとして頂けたら幸いです。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
皆様 良い一日を〜
2021/10/22
自分のメンタルの弱さ
御覧頂きありがとうございます
服作るを始めて
本当に皆様に支えられて
フリーランスので道を進んでいきました。
が……
ここからは自分のメンタル部分になります。
1人でやって行くのに限界を感じていました。
午前中のバイトから帰って
気分のムラがあり
凄くやる気のある時
無い時の差が激しかったです。
頭ではこうして、あ〜してと思うのですが
反面、面倒だなぁ〜明日からでいいか
などと自分を甘やかす。
始めた頃の情熱が薄れて行く日々。
思い返すと
やったという事に満足して
次のステップ、壁を避けていたのだと。
収入面もバイトは辞められる状況ではなく
ここも悩みの種でもありました。
生産枚数を増やしたいが
バイトにも行かなければいけない。
バイトから帰ってくると
一息つくつもりがもう夜。
情けない自分。
“フリーランスになる”
この気持ちが消え失せていく。
世間の流れもインディーズブームも去って
自分の気持ちと比例していました。
生活するにはお金が必要。
家賃、光熱費、水道代などなど…
雑誌を見ると素敵な服が沢山掲載。
これを見てあえて自分が作らなくても
世間にはこんなに素敵な服が沢山ある。
こんな考えをして自分は
逃げ道ばかりを探して
正当化していたのだろうと。
今、思うと覚悟を決めてなかったのです。
反省です。
そこでどうしたか。
午前中のバイトを辞めフルで働きに出ます。
おバカな自分。笑
服の方でやって行く事を選ばない。
ここから服とは離れて行く生活が始まります。
次回、服とは関係ない仕事をしていた頃の
自分を書いて行きます。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
皆様 素敵な一日でありますように。
2021/10/15
服作りスタート
ご覧頂きありがとうございます
2店舗に服を置いて頂ける事になったの
続きです。
レディースとメンズの服作り
その後どうなったか?
午前中はバイト
午後から服作りの生活
記憶を辿ると
レディースは3分の2
メンズはほぼ完売
だった気がします
すいません
何10年も前のことで…
両店舗のオーナー様には本当に
よく売って頂きました。
今この場をお借りして感謝を伝えたいです。
ありがとうございました。
こうして自分で始めると
友人からの紹介で
美容室の制服依頼がありました。
ありがたい!
何着作っただろうか?
その美容室がエステもオープンするので
色違いの制服も制作したり。
専門学校の同級生で学生時代は
あまり交流がなかったのですが
“今、ショップを経営していて
オリジナルパンツを作りたいと思っているんだけど
少ロットだと工場に頼めないから
OtsuCHEE に作って欲しい”
と依頼が来たりしました。
何か行動し始めると何処からか
サポート、応援団、
こんな展開があるんだなぁって思いました。
その時の気持ちは嬉しい〜!
そしてもう一つ感激体験。
自分の作った服を街中で見かけた事です。
当時駅周辺に住んでいたので
身なりも気にせずフラリと
路面の無印良品へ。
すると自分の作ったTシャツを着ている人が。
お〜!
声をかけたくなるがこの身なりで声をかけては
購入者様がこんな人がつくっていると
ガッカリされてはいけない、などと思い
遠くから見守る 笑
母にも電話で嬉しさを伝えた記憶。
あ〜着てくれてありがとうという気持ち。
駅でも あれっ!
これ自分の作ったコート!
すれ違いざまに出会う。
振り返って確かに自分の作ったコート。
あ〜着てくれている〜 嬉しい。
友人がコンビニでバイトしていたのですが
この友人がよく納品前の服を見に来てくれていました。
友人がOtsuCHEE のパーカー着てる人が
コンビニに来てたよ〜と教えてくれました。
うわお〜 これまた感動!喜びです。
もう一つ嬉しい思い出。
メンズを納品しているお店に雑誌の取材が来て
雑誌に掲載された事です。
その雑誌を見てアパレル会社に勤めていた時の
先輩から電話があり
“見たよう〜頑張ってるね〜”と
う〜 涙
こんな体験がありました。
今 振り返ると友人、先輩、人との繋がりで
いいお仕事させて頂いてたなぁと感謝です。
その当時の自分に感謝があっただろうか?
今の自分ほど無かったな。残念だけど…
反省です。
そして順調に進んでいる様に思えた
服作りフリーランスの道でしたが…
次回へ続きます。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
2021/10/08
デザインをやり始めた経緯 2
御覧頂きありがとうございます
前回の続き
会社を辞めて服作りを始めたからです。
とにかく作ろうと好きな服を作り始めました。
実はソーイングは得意では無くて…
やるしかなかったのでカタカタと
ミシンを動かし始めました。
当時、インディーズブームでセレクトショップが
路面に沢山ありました。
友人に服作りを始めたと伝え見せると
“気に入ったから買うよ”
と即買い‼︎
本当ありがたいと嬉しかったです。
その友人と街を散歩中、ふらりとセレクトショップに。
何故か友人が私が服を作っていると
オーナーさんに話し始め
服を一度見せて欲しいという流れに。
ヒェ〜
今、思うとトントン拍子です。
で…
そのお店に自分の服を委託で置いて頂く
事になりました。
友人には本当に感謝です。
ありがとう。
月に一度出来た分だけ納品するというかたちで。
1人暮らしを始めていたし、会社も辞めたので
収入源がなかったので、午前中はバイトをして
残りの時間を服作りにという生活が始まりました。
とにかく作って納品。
オーナーさんも頑張って売っていただきました。
ありがたい‼︎
しかし、フリーランス バイトを辞めるには
ほど遠い収入です。
こちらのショップではレディースを作っていました。
自分はカッコイイ感じが好きだったので
メンズに挑戦してみようと。
以前から気になっていたセレクトショップがあったので
一か八かで服を持ち込み
“こんなの作ってますが、勿論委託で構いませんので
置いて貰えませんか?”
なんと “OK” です。
今、思うと勇気ある行動してたなと想います。
自我自賛 すいません 笑
2店舗に服を置いて貰う事になります。
家の近所(当時の家)に
“コムデ ギャルソン”があります。
ガラス張りの超カッコイイ
敷居の高い感じの雰囲気のショップです。
自分もこんなショップで
デザイン パターン ソーイングで
出来た服を並べて販売出来たら
いいなぁと夢を描いていました。
憧れですね。
こんな思いを抱きながら次回へ続きます。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
皆様 今日も素敵な一日をお過ごしください。
では 次回で‼︎
2021/09/30
デザインをやり始めた経緯
御覧頂きありがとうございます
デザインをやり始めた経緯
OtsuCHEEがどんな人物か?たいした事ありませんが…
書いていきます
一言で言うと好きで終わってしまいますが 笑
思い起こせば小学校の頃から服は好きで
母親が選ぶ物、買ってくるものは
気に入らない、そんな子供でした。
母は田舎育ちで全くセンスが無かった。
ごめんね、お母さん。
中学校になって、TVでファッション通信という
番組を見ていました。
調べた所、今現在もBS東テレで
毎週土曜日に放映しています。
当時 大内順子さんが
パリ ロンドン ミラノなどのコレクションを解説していました。
コレクションでデザイナーが服をとうして
自分の感性を表現します。
ランウェイをモデル達が歩きスーパーモデル
と言った言葉もこの頃に出来た言葉です。
フィナーレでデザイナーがモデル達と拍手を
受けながらランウェイを歩く姿を見て
“私もこれになりたい”
そう思っていました。華々しい世界に憧れて。
そんな思いから高校は服飾科のある学校に進学。
専門教科は当時を振り返るととても楽しいものでした。
年に一度はファッションショーが開催され
自分達がデザインしたものを制作、
着用して発表する機会がありました。
こういう事、楽しくて好きだなって思っていました。
そして次どうするか?
もっとデザインを勉強したいとう気持ちから
専門学校に進学。
当時 斬新なCMをしていた
ドーモ学園 ちゃうちゃう 笑
名古屋モード学園へ入学しました。
入った当初なんだか素敵なオシャレな先輩が
沢山いて緊張していた事を思い出します。
ここでは課題がめちゃくちゃ多かったですが
本当 充実した時間を過ごしていました。
デザインの授業が楽しくて、楽しいと
得意になり評価もしてもらえる。
高い授業料を払ってくれた両親には素晴らしい体験を
させて頂いた事に感謝をしています。
モード学園で楽しい4年間を過ごし就職へ。
この時本当は東京へ就職したかったのです。
東京への憧れです。
でも勇気がなかったんですね〜。
強さがなかった。恐れていました。
後悔といえばこれがそうです。
そして地元のアパレルへ就職。
自分の好きな服を作っている会社ではなかったけれど
アパレル企業の流れなど学ぶ事ができました。
親元を離れ1人暮らしを始めます。
丁度その頃ファッション界ではインディーズが
ブームになって無名のデザイナー達が
服を作っって、企業ではなく個人で
活動するという流れがありました。
“自分も何かやってみたい”
そう思い1年半程勤めた会社を辞め
服作りを始める事にしました。
長くなったので次回へ続きます。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
皆様 今日も良い一日を〜!